引用

asps2005-08-18

杏子は、順子の顔を見た。そして、
「順子」
と、呼んだ。
「どうしたの」
「自分の場所が、どこにあると思う?」
杏子が、言った。
「下のバス停からバスに乗って、十五分くらいいったところに団地があって、その団地の何号棟の何号室とかの2DKが私の場所かしら。丘のむこうの、こぎれいな住宅地の、なんとか不動産の注文住宅が、私の場所なのかしら」
「こわいこと言わないで、杏子」
陸橋の下の歩道を歩いている人たちを、杏子は片手で示した。
「みんな、やがて、家へ帰るのよ。自分の場所、と信じてるところへ帰っていくのだけど、よくそんなことが信じられるわね」
「杏子」
「私に信じられるのは、あの空とか雲とか、いまは沈んでいこうとしてる太陽だけよ」

(美人物語/片岡義男/角川文庫)