五十嵐隆・生還

「Reborn」の、最初の音たちが耳に届いた瞬間、
ああ私は、この音をまた生で聴けるのを、ほんとうはずっと待ち焦がれていたんだと、
やっとわかって、涙が出た。


どこまでも美しい音楽だった。


五十嵐さんのつくる音楽が、ずっと好きだったけれど、
「生還」の夜、やっと分かったことがあった。


あの音楽は、私の、そしてある種の人間の、心の核そのものだ。
どこまでも暗く、悲しく、切なく、やるせない、うねる感情、諦め、
失うことへの無力感。それは心の核にあるもの。
それらの底に、美しさが流れている。
これ以上美しいものはない、というくらいの、まっしろな美しさが、たしかに流れている。
だから、それをそのまま表した彼の音楽は、私にとっては、なによりも明るいもので、
それは、私の翌日をいつまでも照らす希望だ。私の生きる目的だ。


凄く、嬉しそうな、何をも突き上げる、ドラム。
あの頃のままの、素晴らしく安定した、ベース。
人間、そのものの、歌声とギター。


音たちは、ちゃんと、「生還」していた。

あたりまえの毎日が

あたりまえの毎日が
あんなに、愛すべきものだったなんて
あたりまえの愛情が、
日々をすり抜け、形をかえ、受け継がれる、
それだけのことだけど、
失われていくことが今はとても悲しくて、
いとしい。

あたたかなあの日々が戻らない、その辛さは心をつきさして、
だからだいじょうぶ、またあたらしくつくればいいのだと、
ひとつひとつが、いきつづけている。

わからないこと

いっぱい。
わからないことがいっぱい。
どうにもならないことがいっぱい。
不安がいっぱい。
一寸先は闇。


だから、
確かに存在するマイナスに、
目をぎゅっと閉じるのはおしまい。
目をひらいたら、あるんだから。
消えないんだから。
だったらもう、
すっと立つことを考える。
きれいな立ちかたを考える。


いつだって苦いものを飲んだなら、
したたかに笑えばいい。
その苦みにファック・ユーをして、笑いとばせばいい。


今日の夜食べたサラダが、もの凄くおいしかった。
それだけで。

まだずっと、とおく

とおくにきている。
足りないものはなんだろう。

熱がある。あったかい。愛もある。あったかい。
笑顔も、やさしさも、まぶしさも、うつくしさも、
ぜんぶぜんぶそこにあるのに、
それでもほぐれない、わたしのなかのちいさいこ。


途方に暮れて、泣き疲れたら、あとは笑うしかない。


まだずっととおくまで、最愛のひとと手をつないで泣く。


こわいよ、こわいよといっている。


1人ではいえないことも、知っている。

わすれないように

一生包み続けたひと
影と光を掴もうとしたひと
心からまわりに感謝するひと
56億7千万年後を待って眠ったひと
春は花粉症、目が開きづらいけれど、
そこにはいろんな色があって
息づかいがあって
花やら風やらが、おいでおいでと、誘っている


インド料理屋にいった。
そこは、日本にありながら、まったくもうほとんどインドで、壁や匂いや人や食べ物、もうほとんど純然たるインドで、
ただそこで唯一日本を強調するのは、テレビから流れる日本列島を赤く縁取った津波注意報だった。
延々と繰り返される日本各地の津波を警告するメッセージを、インド人の店員さんが、午後の気だるい空気を漂わせながら、じっと見つめていた。
カレーとナンに満たされて笑顔の私に、丁寧に何度も水を注いでくれたやさしい顔の店員さんが、テレビを指しておもむろに「タイフウ?」と聞いたのだった。
私は「大丈夫、ここには来ない。」と英雄のように言い切って、
ガラス張りの店内には外からの太陽が降り注ぎ、
そこには、インドとも、日本とも言えない、ただ春の満腹の昼間が、ひろがっていた。

おいでおいでの、春ですね。