近頃は

asps2007-04-25

狂ったように本を読んでいます。という程狂ってはいませんが、それでも結構な時間、本と共にいます。最近移動中に音楽をあまり聴かなくなって、寝る前には相変わらずsyrup16gを聴いています。それは能動的な鑑賞でなく、受動的な聴き取り、いや、取ってさえいません。しずかに流れる音楽に眠りをひっぱってもらっている感じです。そういうわけで、能動的に音楽を聴かなくなった分、本を読むようになったような、それとは関係無いような。
どっち!
とりとめも無い話をしました。
色々なことを、あまり言葉にしなくなったせいで、自分の言葉を記す頻度が減っているように思います。その分だけ、自分の中の不明瞭な部分が増えているようにも思います。けれどその不明瞭さは、不快ではありません。快適とも言えないのですが。
例えば、可能性、ということを考えたとき、心が前とは違う動きを見せて、でもその動きに、名前をつけることができない。あとになって、いつかつけられるのかもしれないけれど。今まで、自分のありとあらゆる感情や考えを言葉にしてきた私にとって、それはもしかして、とても覚束無い状態と言えるのかもしれない。
覚束無い、ということは、一体どういうことなんだろう。
そんなこと考えなくていいよ、と、色んな人が、色んな人に対して言ったけれども、私にとって考えるということは夢への確かな指針であって、否むしろ、夢そのものであるから、それを手放すことは、なかなかしたくないのだ。けれども、感情と思考を両立させることは、時に不可能であるのかもしれない。感情を手にした分、思考を失うのだ。
そんなこんなで暮らしています。近頃は、以前にも増して多くのものを吸い込むような態勢でいます。方向は偏ってきているけれども。そして活発とも言えないのだけれども。そう、全くもって、活発ではありません。ただただ、吸い込んでいる状態です。少しずつ漏れてはいるだろうけれど。(そしてもちろん、吐き出さないまま消えていったりする!)
吸い込んだ分だけ、吐き出せれば、活発といえるのだろうけど、
ああそうか、じゃあもしかして、わたしは、吐き出したいのかな、
一体なにを!


というわけで。生きてます。まだまだずっと、未熟です。欠落しています。でもそれらを晒せるだけの、度胸はあります。今のところは。
もちろん、方向は偏ってきているけれども。