引用、その12

asps2007-01-21

「ねえ、淳平くん、この世界のあらゆるものは意思を持っているの」と彼女は小さな声で打ち明けるようにいった。淳平は眠りかけている。返事をすることはできない。彼女の口にする言葉は、夜の空気の中で構文としてのかたちを失い、ワインの微かなアロマに混じって、彼の意識の奥に密やかにたどり着く。「たとえば、風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」

東京奇譚集/村上春樹著/新潮社)