引用、その8

asps2006-11-06

猫が外界から取っている情報の量は人間よりもはるかに多く、当然それらはすべて現在で、記憶という過去の保存が巨大化した理由は現在の希薄さの代償であることは間違いないようにいまの彼には思えた。

音や匂いや触れるものや見るものが猫の心の活動の大部分を占めていて、猫はそれらとそのつど関わりを持ってそのつど世界に送り返している。

「ピィー、ピィー」と高く澄んだ啼き声がした。「チッチッチッチッ」とスズメより一段高い啼き声がした。「クックックゥ、クゥクゥ」というキジバトの啼き声はだいぶ遠くからのものだった。そのようにそのつど世界と関わりそのつど世界に送り返す生き方をしている猫にとって、世界そのものは人間よりもずっと濃密で、だから人間は世界から取っている情報が少ないために自分の中にあるものの方が周囲よりも濃密だと考えがちだけれど、猫にとっては自分の中にあるものよりも外にあるものの方がずっと多くて、自分が生きて存在していることよりも世界があることの方が確かなのではいかと彼は思った。

(明け方の猫/保坂和志著/講談社